石川県人名事典 現代編Ⅱ 中谷宇吉郎

石川県人名事典 現代編Ⅱ 中谷宇吉郎

石川県人名辞典現代編Ⅱ 2010.4.30発行 石川出版社
中谷宇吉郎(なかやうきちろう)

■誕生

明治33年(1900)7月4日、石川県江沼郡作見村字片山津乙の36番地ノ1(現在の加賀市片山津温泉)に生まれる。

■死去

昭和37年(1962)4月11日、東大付属病院で骨髄炎により死去。享年61歳。
14日、青山斎場で葬儀が行われる。戒名は文藻院精研浄雪居士。加賀市中島町にお墓がある。  

■ふるさと加賀での幼少時代

宇吉郎は父卯一と母てるの長男として生まれた。 弟の治宇二郎(考古学者)と、妹4人の6人兄弟。 生家は叔父己次郎と父が片山津温泉で始めた呉服・雑貨の店で、丸中屋といった。 白山と柴山潟を見渡す美しい自然の中で育ち、子供の頃から将棋が強く大人もタジタジだった、6歳のとき病院の看板を上手に書いてあっと驚かれた、などのエピソードがある。

宇吉郎の才能を見抜いた両親は、教育力が高いとされた大聖寺の錦城小学校に入れるため、幼稚園の時から大聖寺の親戚などに下宿させた。 大聖寺は前田の支藩があったところで、歴史と文化の色濃い町であった。 1年の時は九谷焼の名工・浅井一毫の所に下宿。 茶碗を籾殻で力一杯擦る手伝いもし、九谷焼に親しんだ。 2年の時からは旧藩主前田利鬯に家令として仕えた松見家に下宿した。 道路を挟んで「御殿」と呼ばれた旧藩主宅があり、松見家の祖母に連れられてよく出かけた。 ご前様(奥方)は、宇吉郎が行くと上座からそばまでおりてきて、学校でのできごとや町の様子などを尋ねた。 宇吉郎はその頃読んだおとぎ話などを得意げに話し、ご前様とお話するのを楽しみにした。 下宿では、難しい漢字が一杯の帝国文庫、『西遊記』などを夢中で読んだ。

驚きや不思議を感じる体験も少なくなかった。 錦城小学校の裏山には落城伝説があり、簪をさした蛇や双頭の蛇が出ると恐れられていた。 5年の時、先生から聞いたカント・ラプラスの星雲説は宇吉郎の心に影響をおよぼし、仏壇の燈明の光がゆらぐのを見ながら、生まれたばかりの星雲の姿を想い浮かべたりした。 随筆「簪をさした蛇」で、宇吉郎は「眼に見えない星雲の渦巻く虚空と、簪をさした蛇とは、私にとっては、自分の科学の母胎である。」と述べている。 本格ものにふれ、不思議に驚いた子供時代は、後に科学や随筆で活躍する宇吉郎の土台になったと思われる。

■寺田寅彦との出会い、実験物理学の道へ

1913年、県立小松中学校に入学。同級に北村喜八(演劇家)がいた。 来校した木村栄博士の「Z項の話」の講演の際、筆記係をつとめた。

1919年、第四高等学校(理科甲類)に入学。 田辺元の『最近の自然科学』を読み、理論物理学を志望する。 溝渕進馬校長の推薦で、関西の匿名の実業家(実は鳥井信次郎)から大学進学後に学資援助を受ける事になる。

1922年、東京帝国大学理学部物理学料に入学。 ニュートン祭(物理教室のクリスマス会)の会計報告のため、初めて寺田寅彦宅を訪ねる。 寅彦の指導のもと、卒業実験「飛行船の球皮の放電の実験」を行う。 寅彦との出会いが実験物理学を専攻する機縁になり、随筆や絵など文科のことでも寅彦から多くを学ぶ。 1925年、東大を卒業し、理化学研究所の寺田研究室の助手となり、電気火花の研究を行う。

1927年11月、藤岡作太郎の長女綾と結婚した。 北海道大学に新設される理学部の教授候補として英国に留学することになり、単身で出発したが、翌年五月、綾はジフテリアで死去した。 異郷で訃報に接した宇吉郎は、沢山の油絵を描き傷心を癒したという。 ロンドンのキングスカレッジで、リチャードソン教援の指導を得て長波長Ⅹ線の研究を行い、霧箱の研究で知られるノーベル物理学賞受賞者ウィルソンとも交流した。

■「雪は天から送られた手紙である」

1930年、北海道大学の助教授として赴任し、翌年、金沢の寺垣丹蔵の長女静子と結婚。 そして、教授に昇任した1932年、雪の研究を開始した。 雪は人々の暮しに深く関わるもので、北海道は雪の研究に適したところだと考えていたが、アメリカのベントレーが撮った雪の結晶の写真集を見て雪の美しさに感動し、研究を始める決心をした。

宇吉郎は天然の雪をよく観察することから始め、十勝岳の中腹の山小屋で三千枚の雪の結晶写真を撮り、結晶の分類を行った。 そして、どんな気象状態のときにどんな結晶が降るかを調べた。 次に、人工的に雪の結晶を作ることをめざし、このため、北大にマイナス50℃まで下がる性能の低温室が作られた。 そこで、ガラス管内の下部に置いた水を温めて水蒸気を上昇させ、上端に吊るしたうさぎの毛の先に結晶を成長させることに成功した。 次に、部屋の温度と、水の温度(水蒸気の量)を変えて実験すると形の違う結晶ができることを確かめた。 そして、温度と水蒸気量の組み合わせをいろいろに変えて実験を繰り返し、結晶の形と二つの量(気温と水蒸気量)の問の関係を明らかにした。 この関係を表した図は「ナカヤダイヤグラム」と呼ばれるが、この図を基にすれば、降ってきた結晶の形から上空の気象状態が推測できることになり、「雪は天から送られた手紙である」という宇吉郎の名言が生まれた。 人工雪が成功したのは1936年で、その秋には人工雪の実験を天覧に供したこともあり、有名になった。 この研究に対して、服部報公会賞(1938)と帝国学士院賞(1941)が授与され、研究内容は、1954年、ハーバード大学から『SNOW CRYSTALS』として出版された。

■随筆の名手、絵、踊りなど多才

人工雪に成功した1936年の秋、宇吉郎は衰弱が著しく、伊東温泉で静養することになった。 小泉丹の診断で肝臓ジストマとわかり、武見太郎 の治療を受けて回復に至ったが、この静養は、随筆を本格的に書き始める機会になった。


1938年、最初の随筆集『冬の華』を小宮豊隆の序文を得て岩波書店より出版し、随筆作家としての地歩を固めた。 (その後、「冬の華」シリーズの随筆集が計12冊出ている。) 又、その年、雪の研究について一般向けに書いた『雪』が岩波新書創刊時の一冊として出版された。 (『雪』はその後、中谷宇吉郎雪の科学館が開館した1994年、岩波文庫に装いを変えて、版を重ねている。)
伊東での静養の時期は、絵を描くゆとりもでき、雑魚などを題材に油絵を描いた。 後には、油絵から墨絵に変えていったが、宇吉郎が絵を描き、それに湯川秀樹、小宮豊隆ら友人に短歌などの讃をしてもらうことを楽しみ、そうした合作も残されている。 又、岩波書店の番頭小林勇と一緒に絵の二人展をした。

還暦祝賀会(1960)で「助六」を踊り、海外で開かれる学会にレコード板を持参し、懇親会で踊りを披露するなど、多芸であった。

■戦後から晩年まで

1952年、アメリカ・シカゴの研究所に2年余り滞在し、アラスカの氷河から運ばれた氷を使って、チンダル像や氷の力学的変形などを見事な実験で示した。 一九五七年からは、グリーンランドへ出かけての研究に取り組み、その後の日本の南極研究にも継承されている。

亡くなる前に言った「人には親切に」は、宇吉郎が実践してきたことであり、多くの人の心に生きている。(正三位勲一等に叙せられた。)

(住所)―石川県加賀市潮津町イ-106  中谷宇吉郎雪の科学館 館長 神田健三